あかぬ色香は昔にて

祐徳稲荷神社の尼寺としての前身「祐徳院」に関する研究日記

あかぬ色香は昔にて はじめに

あかぬ色香は昔にて 

祐徳稲荷神社の尼寺としての前身「祐徳院」に関する研究日記

※タイトルは、祐徳稲荷神社の創建者である花山院萬媛の愛された皇太后宮大夫俊成女の歌「梅の花あかぬ色香も昔にておなじ形見の春の夜の月」から採ったもの。

※萬子媛という呼び名は明治以降のものと思われるので、存命時の呼び名の一つであった可能性の高い「萬媛」に統一したい。このことについては研究日記の中で触れるが、さしあたって次の記事を参照されたい。

mysterious-essays.hatenablog.jp

 

はじめに

祐徳稲荷神社とは

佐賀県鹿島市古枝に鎮座する祐徳稲荷神社は、日本三大稲荷の一つともいわれ、商売の神様として知られている。祐徳稲荷神社の公式ホームページによると、参拝者は年間300万人に達する。当稲荷神社は、貞享4年(1687)に、肥前鹿島藩主鍋島直朝公の夫人花山院萬子媛が、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請されたものだという。

www.yutokusan.jp

祀られている神様は、衣食住を司る生活全般の守護神「倉稲魂大神(ウガノミタマノオオカミ)」、天照大神が隠れてしまわれた岩戸の前で舞を舞われた、技芸上達の神あるいは福徳円満の神として信仰される「大宮売大神(オオミヤノメノオオカミ)」、高千穂の峯に天孫降臨された天孫瓊瓊杵命(テンソンニニギノミコト)の先導役をつとめられた故事から水先案内の神、交通安全の神として信仰される猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)である。 

ここで、境内摂末社及び祀られている神様に注目したい。

境内摂末社と、そこに祀られている神様

石壁神社 萬媛命(祐徳院殿)
命婦社  命婦大神
岩本社  岩本大神
岩崎社  岩崎大神
若宮社  文丸命、朝清命

石壁神社

どのようないきさつで、創建者が石壁神社に「萬媛命」として祀られているのだろうか? それについて、前掲ホームページ「石壁社(せきへきしゃ)・水鏡」 の「ご祭神 萬子媛(祐徳院殿)」*1には次のように書かれている。

萬子媛は後陽成天皇の曾孫女で、左大臣花山院定好公の娘でありますが、寛文2年直朝公にお輿入れになりました。その折、父君の花山院定好公より朝廷の勅願所でありました稲荷大神の神霊を、神鏡に奉遷して萬子媛に授けられ「身を以ってこの神霊に仕へ宝祚(皇位)の無窮と邦家(国家)の安泰をお祈りするように」と諭されました。萬子媛は直朝公に入嫁されてより、内助の功良く直朝公を助けられ、二人のお子様をもうけられましたが、不幸にしてお二人共早世されたのを機に、貞享4年62歳の時此の地に祐徳院を創立し、自ら神仏に仕えられました。以後熱心なご奉仕を続けられ、齢80歳になられた宝永2年、石壁山山腹のこの場所に巌を穿ち寿蔵を築かせ、同年四月工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)されました。萬子媛ご入定の後も、その徳を慕って参拝する人が絶えなかったと云われております。諡を祐徳院殿瑞顔実麟大姉と申しましたが、明治4年神仏分離令に添ってご神号を萬媛命と称されました。

後陽成天皇は曾祖父、公卿であった花山院定好が父である。母が天皇の血筋で、母にとって後陽成天皇は祖父だった。萬媛に兄弟姉妹はいたのだろうか。

萬媛の嫁ぎ先は武家であった。肥前国鹿島に置かれた佐賀藩支藩鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝に嫁いだ。降嫁後の萬媛はよき妻で、二児をもうけた。不幸にもその子らが早世したことから、62歳で鹿島藩領古枝に祐徳院を創立、神仏に仕えた。80歳の4月、石壁山山腹の寿蔵にて断食入定。諡、祐徳院殿瑞顔実驎大姉。

遺徳をしのぶ参拝者は引も切らず、明治期の神仏分離令により萬媛命の神号を贈られた。

このようにまとめてみたが、疑問が湧いたのは、萬媛の出家の動機が二児の早世によるものだとしたら、そのときから年月が流れすぎているのではないか、本当に二児の早世が動機だろうかということだった。二児がそれぞれ何歳で亡くなったのか、調べなくてはならないと思った。

祐徳院を、庵のような、茶室のような小さな家のようなものだと想像した。

また、わたしは萬媛の断食入定を疑わなかったが、前掲「ご祭神 萬子媛(祐徳院殿)」をよく読むと、「断食入定」とはどこにも書かれていない。断食行と入定を切り離して考える発想はこのときのわたしにはなかった。

命婦

前掲ホームページ「命婦社」*2より次に引用する。 

稲荷大神の神令使(お使い)である白狐の霊を、お祀りしている御社である。

光格天皇天明8年(1788)京都御所が火災となり、その火が花山院邸に燃え移った時、白衣の一団が突如現れて、すばやく屋根に登り敢然と消火にあたり、その業火も忽ち鎮火した。

この事に花山院公は大変喜ばれ、厚くお礼を述べられこの白衣の一団に尋ねられた。
「どこの者か?」
答えて言うには、
肥前の国鹿島の祐徳稲荷神社にご奉仕する者でございます。花山院邸の危難を知り、急ぎ駆けつけお手伝い申し上げただけでございます。」……(略)……
花山院内大臣はこれは不思議なことだ、奇蹟だと内々に光格天皇に言上されると、天皇命婦の官位を授ける様勅を下され、花山院内大臣自ら御前において【命婦】の二字を書いて下賜されたといわれる。

ここに書かれた「白衣の一団」とは、もしかしたらこの白狐の霊として祀られている方々は……と後にわたしは考えるようになった。 

岩本社

前掲ホームページ「岩本社」*3に、岩本社のご祭神が、岩本大神という技芸上達の神様と説かれても、祐徳院を庵のようなのものと考えていたわたしには出家後の萬媛との関係など想像できず、弁財天を連想しただけで、よくわからない神様だった。祐徳博物館の女性職員からお話を伺い、ある貴重なメールが届くまでは……。

岩崎社 

前掲ホームページ「岩崎社」*4に、「縁結びの神様として祀ってあります」と書かれている。「縁結びの神様を祀ってあります」とは書かれていないことに、ふと気づいた。

若宮社

前掲ホームページ「若宮社」*5に、ご祭神の文丸命、朝清命がどのような神様かは書かれていない。このことは、萬媛を調べ始めてすぐに明らかになった。

執筆にあたっての私的迷い

ところで、祐徳院に関する研究日記を執筆するに当たり、わたしはこの記述から神秘主義的要素を消すべきかどうかの判断がつかず、迷い続けていた。

消せば、世間に出しやすいものになる。しかし、そうすれば、自身の神秘主義的感性なしでは解けなかった謎のいくつかを記述することが難しくなるだけでなく、生前から優れた神秘的な能力を発揮された萬媛を表面的にしか扱えなくなるだろう。

消すことはできない――との結論に達した。